レーニン主義と革命の平和的発展について

―ルュシュアンシ・セーブ批判する―

松江 澄

 

労働運動研究

 

 

 ルュシアン・セーブの意味するもの

 

 「フランス共産党二十四回大会と平和革命戦略のレーニン主義的発展」と題するルュシアン・セーヴの論文(「労研」No.95)は、現代革命として発達した資本主主義における社会主義革命織の新しい潮流――いわゆる「ユーロ・コミュニズム」――の一つを代表している重要な理論的見解のように思われる。それは彼がフランス共産党中央委員であり、フランスで知られた理論家であるというばかりでなく、彼の論文もふれているように新しい転換を行なった「フランス共産党二十二回大会報告」の直接的な理論化という点で今まで発表されたどの論文よりも一定の「説得性」をもっているからである。そればかりではない。この論文はその題名にもかかわらず、「平和革命戦略のレーニン主義的発展」というよりも、むしろレーニン主義への批判という点でも際立って大胆だからである。

 彼はまずレーニンの「国家と革命」から引用して暴力革命不可避論がマルクス・レーニン主義の全理論の根底にあるといい、「社会主義への平和的移行」の戦略が「真剣なマルクス主義者」にとってレーニン主義的であるかどうかを、多少の皮肉をこめて提起する。そぅしてそのためにも、一九一七年の数カ月にわたるレーニンの理論と実賎を研究することがこの論文の主要な目的であると言う。そこで私もまた彼とともに事実と歴史に照してそれを研究することを一つの目的とするが、そのためにも、彼がこの研究から引き出しているいくつかの「教訓」をまず確かめながら、果してそれが歴史的な事実に適合しているかどうかを探求することから始めたい。

 セーヴが引き出している理論的教訓の第一は、レーニンは「革命的マルクス主義の如何なる稀薄化に対しても原則的な闘争を行なうと同時に革命の平和的な道の機会をとらえる能力をもっている。それは二つのものの緊密な統一であり、一から他への弁証法的な運動であるが、その運動は究極的には実践の優位を基礎とする」ということであった。この限りでは、彼がひきつづいて説く本質と形態の弁証法的な関係とともに異存はない。しかしわれわれにとって何より重要なことは、ただ言葉や概念の上での弁証法ではなく、レーニンによってあの歴史的な経過のなかで、どのようにこのテーマが具体的に発展させられたかを探求することである。その意味でまさに「究極的には実践の優位を基礎」としなければならない。そこで問題なのは彼の引き出してくる「第二の教訓」である。

 セーヴは次のようにいう。「革命が平和的であるためには、革命的変化の大義のために人民の多数者を克ち取ることが第一に必要であり、その多数者が強ければ強いほど、革命の平和的な性質は一そう確かとなる。」と。彼は、多数者とは「カの社会的政治的イデオロギー的な関係であり、それの選挙上の算術への転形はその様相のただ一つにすぎない」と注意深くことわりながら、「この一様相が特定の瞬間に決定的な重要性をもつ」ことを、ソビエト内でのボルシェビキによる多数者獲得を例にあげて強調し、「政治的多数と数的な多数は一致しなければならない」というマルシエ報告を擁護している。さらに彼は、「敵がどれほどそれを欲しょうとも、暴力にたよることができるようであってはならない」という「平和革命」の第二の条件が多数者獲得という第一の条件と弁証法的に結びついていることを確認しつつ、「もしブルジョアジーがそれ(支配階級のために武器をとる大衆――筆者)を持っていないか持つことのできない場合は、彼は平和的闘争の戦野を受入れざるを得なくなる。それが問題の根本である。」と強調する。

 それでは果して多数者獲得と「平和革命」が同義語であるといえるのか。一九一七年のレーニンが通したものはそういう教訓なのだろうか。

彼の「研究」をたどりながら検討して見よう。

 

 レーニンと革命の平和的発展

 

 セーヴは、四月、ペトログラードに帰ったレーニンが新に発見した政権権の二重性のもとでボルシェビキの古い「公式」を批判し、ソビエト権力を増大するために「今日世界中で最も自由な国である」ロシアの「最も数多い合法的可能性と大衆に対する強制の欠如」のもとで「克服さるべきものは武装した力でなく、『平和と社会主義の最悪の敵である資本家政府に対する大衆の不合理な信頼』であった」ことを挙げる。「なさるべきことはロシアのもっている無限の自由を有利に用いて大衆の中の説明と組織の辛抱強い労働によって多数を克ち取り、すべての権力が移譲されるべき『ソビエト内部の指導権のために』政治的に闘うことである。五月と六月を通じてレーニンの第一の関心事は、武装蜂起の準備でもなく『国家と革命』に関するパンフレットの完成でもなく、暴力に反対する闘争であった。」 ことを強調し、ロシア社会民主労働党(ボ)ペトログラード市協議会(四月)でレーニンが提案した決議を挙げる。「人民の多数者、すなわち、労働者と貧農への全権力の移行がロシアにおけるほど容易にかつ、平和的に、実現し得るところは何処にもない。」と。

 たしかにレーニンが幾度もくりかえしのべているように、当時ボルシエビキは少数派であり、従ってソビエト権力を強化するためにもソビエト内でボルシェビキが多数者に転化するために闘うことをとくに強調した。しかし、にもかかわらず革命の平和的発展は何故可能であったのか、何をめざして多数者獲得を強調したのか。当時の状況の正確な把握とともに知る必要がある。 

まず第一に重要なことは「二重権力」の問題である。それは、「わが国の革命のもっとも主要な性質、もっとも真剣に熟考しなければならない特質は、革命が勝利した直後に成立した二重権力である。この二重権力は二つの政府の成立となってあらわれている。」 (レーニン「わが国の革命におけるプロレタリアートの任務」)その二つの権力とはもちろん臨時政府と労働者・兵士(農民)ソビエトである。この 「驚くべきほど特異な」情勢はどうして生れたのか。それは、「革命的プロレタリアートと農民の代表者が、武装していながらブルジョアと同盟を結び、権力をもちながらそれをブルジョアジーにゆずった」という「かつてあったためしのない革命」としてあらわれていることでみるか(レーニン「ロシア社会民主労働党(ボ)べトログラード市協議会」)こうした情況のもとで、すなわち、武装し、事実上の権力をにぎっているソビエトが、「革命的祖国防衛主義」に移ったエス・エル、メンシエビキの多数派によってブルジョアジーと妥協させられ、臨時政府の権力が労働者・農民ソビエトに依拠しているという「二重権力」がからみあった特異な状況のもとで、また反革命派が時期尚早の行動によって革命を坐折させようとのぞんでいるとき、少数派のボルシェビキが武装蜂起を挫起したとすればそれが全く誤りであることは明白である。

 権力がブルジョジーの手中ににぎられたというかぎりで終了したブルジョア革命から社会主義革命へプロレタリアートの独裁へ――今一歩前進するためにも、また本来国家に存在し得ない二重権力を解消してソビエトが単一に権力をにぎるためにも、決定的に重要なことはボルシェビキが多数派となるために闘うことであった。その「任務は、階級的方針を小ブルジョア的沼地から離脱させること」であり、「労働者、兵士、農民の代表ソビエトの綱――これが当面の任務であり、「さしせまった問題は、常備軍、官僚、警察の廃止を実行し、全国民を一人のこらず武装させることである。」 (前同「協議会」)これが 「全権力をソビエトヘ」という革命の平和的発展の方針とともに掲げられた任務であった。それは、一方では、ソビエトに依拠している臨時政府、武力を兵士ににぎられている臨時政府がどんな強制もできないというどこの国にもない 「自由」のもとで、他方、労働者、農民、兵士その他の代表ソビエトのような革命的大衆組織というどこの国にもない力をもっている状況のもとで追求された革命の平和的発展であった。それはセーヴがいうようにただの「多数者」だからでもないし、けっしてレーニンが「暴力を基本的誤謬と考えた」からでもなかった。

 セーヴは、レーニンが自ら説いてきた「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」ということばに「反対してしゃべりつつある」 ことをレーニン自らが認め、この転換期において「内乱はわれわれにとって長期的な辛抱強い、平和的な階級的宣伝の行為に変形した。」とのべていることを引用しながら願望をこめて次のようにいう。「さらに、未だかつてない平和革命の可能性のすべての政治的理論的結果を予想して、レーニンは、短い文句ではあるがこのような戦略の見通しにおいて意味される権力の表現として独裁という用語が適切かどうか疑問とすることができると認めるまでにいたっている。これを真に真剣に受け留めるならば、平和革命の戦略はプロレタリア独裁の概念に影響を与えざるを得ないということの、それは、ほんの一寸したものではあるが、価値ある最初の指示ではないか。」 と。

 しかし、残念ながら事実は彼の思うとおりではない。レーニンは続けていう。(「ロシア社会民主労働党(ボ)第七回全国協議会」)「人々が内乱の必要を理解しないうちにわれわれが内乱をかたるとすれば、疑いもなく、われわれはブランキ主義に陥るであろう。・・・・いまは暴圧者はぜんぜんいないし、大砲や小銃をもっているのは、資本家ではなくて兵士である。いまは資本家は、暴力によらないで、欺瞞によって目的を達している。いま暴力についてさけびたてるわけにはいかない。そういうことはばかげている。われわれは帝国主義戦争の内乱へのこの転化は主覿的条件にではなく、客観的条件にもとづくものであるとかたるマルクス主義の見地に、しつかりと立つことができなければならない。われわれはさしあたってこのスローガンを放棄するが、しかし、これはさしあたってのことでしかない。いま武器をもっているのは、資本家ではなくて、兵士と労働者である。政府が戦争をはじめないかぎり、われわれは平和的に宣伝をおこなう。」と。さらにソビエトが権力をにぎる展望については、ソビエトが何をなすべきかという問題を提起しつつ、まだ「われわれはソビエトを十分に理解し研究していない」と指摘し、パリ・コムミユーン型の国家としての権力=プロレタリア独裁は「この権力をどういう仕方で行使しはじめるであろうか?」と問いかける。「ところが、資本家をいちばんこわがらせる言葉を私がいまの時期にもちいているといって私を非難する人々がいる」が、「私がこの言葉をもちいたのは、古い機関を新しい、プロレタリア的な機関に代えるという意味にすぎなかった。」と答えている。ここにはセーヴが偉大な発見をしたはずのどんな言葉もない。ここにあるのはレーニンの正確な戦術と謙虚な追究である。

 

 レーニンと戦術の転換

 

 その後、七月中旬、ケレンスキー内閣の成立によって臨時政府は軍事独裁へ転換し、反革命が事実上国家権力を握った―二重権力は解消しポナパルティズムが成立した――新しい情勢のもとで、レーニンは革命の平和的発展が終ったことを宣言した。しかし、九月、コルニロフの反乱によって臨時政府の力が弱まった情勢のもとで再び「全権力をソビエトヘ」というかつてのスローガンを提起し、革命の平和的発展を追求した。その後も、レーニンは蜂起の直前まで、どんな小さな機会も見のがさず、あるときにはほんの数日の平和的発展のためにも心をくだいて追求したことはセーヴが指摘するとおりである。このようなん目まぐるしい転換はどうして起き得たのか。それはセーヴがいうように予期されぬ事件がおきたためだけなのか。それともセーヴが引き出した教訓の£うに多数者の動向によって変ったのか。

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けっしてそうではない。

 周知のようにレーニンはいつの場合にも、多数者獲得という思想を放棄したことはなかった。それどころか、レーニンは、「プロレタリア」革命は労働者の前衛すなわちプロレタリアートにたいする労働者の圧倒的多数者の共感と支持がなければ不可能である。だが、この共感、この支持は、一挙にあたえられるものではなく、投票によって決定されるものでもなく、長い、困難な、苦しい階級闘争によって獲得されるのである。」(「イタリア、フランス、ドイツの共産主義者へのあいさつ」)とあらためて強調している。人民の多数派を獲得することは階級闘争と革命闘争の形態がどのようなものであるにせよ―平和的であれ、非平和的であれ ―勝利の必要条件である。人民の多数者の共感と支持のもとでこそ十月革命は勝利した。

 従ってレーニンと十月革命から、革命の平和的発展について学ぶべき教訓は、けっしてセーヴのいうように多数者獲得と「平和革命」を同義語にすることではない。今とは異なる当時の内外情勢のもとでも―通常ならば革命の平和的発展はごくまれな機会であるような情勢のもとでも―長い苛酷な帝国主義戦争から人民が抜け出すために、代々しいたげられてきた農奴から決別するために、「平和と土地とパン」をかちとるために「砂の中の宝石」を探すような努力で革命の平和的発展を追究したレーニンの感動的な人間性と、すぐれて戦術的な洞察による機敏な革命形態の転換をこそ学ばなければならない。それは歴史的に異なる情勢と条件のもとで、しかし同じように一種の「二重権力」のもとにありながら、反革命暴力をはねかえすことに成功しなかったチリの同志が、「形式が本質とすりかえられ、ただひとつの路線だけが絶対化されたが、それは疑いもなく誤りであった。」と深刻に、また卒直に自己批判していることと別なものではない。チリ共産党政治局員であるポロデイア・テーテルポイムは次のようにいう。「『平和路線』は、内戦を除外するかぎりにおいて正しい用語といえる。だが多くの変動があるのだから、この用語といえども、暴力は歴史の『助産婦』である、という命題を避けて通るわけにはいかない。

われわれはつねにそれを念頭におくぺきであった。路線の変更という行動は、『馬をかえて』前進しつづけることを意味する。われわれはそれを思いおこすべきであった。流れの途中で馬をかえることはむずかしい。とはいえ、あらかじめ準備されていないなら、それはもっと困難である。……何年間をも要するかも知れない事前の準備がそれには必要だ。チリの人民運動にはそれが欠けていた。大衆の先頭を進撃する革命の尖兵は、必要なときには、反動の急襲にたいしてもっとも強力な手段を行使する用意をととのえていなければならない。」と。(「チリ革命敗北の教訓」)こういうとき、彼は十月に至るレーニンの教訓を思い起しているのだ。路線と闘争形態の転換―それは革命の弁証法である。

 それはロシア革命当時とは根本的に変化している内外情勢と力関係のもとでも―革命の平和的な発展が「ごくまれな機会」でなくなった条件のもとでも―以前として重要で有効な教訓である。「敵の暴力装置を圧倒する革命的な大衆闘争の力だけが、労働者階級の意志を内戦以外の方法で支配階級に強制することができる。それは権力とのたえまない対決と激しい階級闘争の道である。したがって権力の奪取にあたって敵の暴力的な攻撃を部分にとどめるか全面的なものとさせるか、すなわち内戦をともなうかともなわないかは、任意にえらぶことのできる二者択一の問題ではない。それは反革命暴力の攻撃を圧倒できる革命的な力をどこまでつくりあげることができるかどうかにかかっている。それは新しい歴史的条件のもとで革命力量を組織する労働者階級の指導と力の問題である。」(「現代資本主義の危機と労働者階級」労働者党全国委員会―「労研」No.97

 

 レーニンと社会主義的多数派

 

 しかし、セーヴがもっとも強調したいのは社会主義的多数派とプロレタリア独裁との関係についてである。彼はレーニンから「多数者準得=平和革命」という彼の教訓を引き出しながらその不満をかくさない。「権力の獲得は平和的であるにもかかわらず結果として現われるのがやはりプロレタリア独裁であるとはどういうことか」と問いかけ、彼自らの回答を用意しながら「何の不思議もない」と断言する。すなわちセーヴによれば、十月革命の最初の内容はプロレタリアートばかりでなく人民の巨大な多数者の自明の要求である「平和とパンと土地」であって、そこにこそ平和的な移行にあえて反対しない多数者の支持の獲得を可能にしまたレーニンが特定の瞬間暴力革命への言及を放棄することにちゅうちょしなかった理由がある。しかし、社会主義という目的を考えた場合は事態ははなはだ異なるとセーヴはいう。「一九一七年のロシアの経済的社会的文化的条件と当時の国際的条件には、この目的のための政治的多数者の存在の可能性は全然なかった」し、「レーニンのうちにプロレタリアとその同盟者への権力の平和的移行の理論という無限に価値あるものがあったとしても、社会主義への平和的移行という理論はなかったし、あり得なかった。」と断言する。

彼はレーニンを引用しながら、少くとも社会主義への移行が確保される以前においては社会主義を大衆の要求とすることは不可能であったという。「プロレタリアートは国家権力を征服した後にのみ人口のこの部分(半プロレタリアと農民)を闘い取るし、そうすることができる。いい

かえれば、ブルジョアジーを倒し、すべての労働者を解放し、実践においてプロレタリア権力の与える利益を示した後である。」と。(「ドィッ独立社会民主党の手紙にたいするロシア、共産党の回答草案」)さらにセーヴは、「それがプロレタリア独裁の観念の基礎であり、本質そのものである。」というレーニンの言葉をつけ加え、レーニンにとってプロレタリア独裁が何故必要であったかを説明する。

セーヴが主張したいのはプロレタリア独裁は社会主義的少数派であるプロレタリァートが、あらかじめ人口の多数者を獲得してからではなく、さきに権力をとり社会主義に移行したあとで、権力を利用して利益を与えることで人民の多数派を獲得するために必要だった一時的な武器なのだということである。そうしてレーニンが「その逆は歴史上まれな例外である」といったその例外が今では当然のことになっているというのだ。「レーニン時代には単なるアカデミックな理論にすぎなかった『このまれな例外』しかもカウツキーの修正主義のいちじくの葉ッパとして、その当時のプロレタリア独裁の必要性に直面して彼の退却をいんぺいするに役立ったものであったが、今やそれが、フランスと世界の現状において現実的な、強力な、明白な、可能性と按っている。」と。

彼によればプロレタリア独裁は歴史的な一時期の必要物であって今は不必要であリ、そのことで修正主義に転落したカウツキーが「歴史的な逆転」のもとでふたたび正統派として脚光を浴びることになる。時代が、マルクス主義者と修正主義者の位置を逆転させたというのだ。

先を急ぐまえもう一度レーニンに帰ろう。たしかにレーニンは、権力をにぎったプロレタリアートが国家権力を利用して搾取者の負担で実際の利益を与えたのちにはじめて住民の多数者がプロレタリアートの味方になることを、くりかえし強調している。レLニンは、ポグロム、リンチ、軍事的暴力、テロルが横行するなかで「暴カテロルを放棄するとは泣き虫の小ブルジョアに変ることを意味する」という情勢のもとで、「プロレタリアートの独裁とは、搾取者の反乱を暴力で弾圧する必要の自覚、そうする覚悟、能力、決意を意味する。」と強調し、「ブルジョア議会への投票によってあらかじめ人民の多数者を獲得せよ」と要求するドイツ独立派とフランスのロンゲ派にたいして、「プロレタリアートの独裁とは、搾取者の収奪によって、勤労被搾取大衆全体を味方にひきつける能力、覚悟、決意を意味する」と強調しているのだ。(同前)レーニンが特に考慮に入れているのは農業プロレタリァート、半プロレタリアまたは零細農および小農であった。彼等は「先進国でも……経済的、社会的、文化的には社会主義の勝利に関心をもってはいるが、彼らは革命的プロレタリアートが権力をとったあとではじめて、プロレタリアートが大土地所有者と資本家に断乎とした制裁をたくわえたあとではじめて、これらの打ちひしがれた人々が、自分達には十分力の強いしっかりした、組織的な指導者と組織者がついていて、援助し、指導してくれるし、正しい道をしめしてくれるということを、実地のうえで理解したあとではじめて革命的プロレタリアートを決定的に支持できるのである。」と。(「農業商題についてのテーゼ源案」)

歴史的な情勢と条件が異なるとはいえ、労働者階級が同盟軍である農民、都市小生産者をはじめ小ブルジョァ思想の影響下にある勤労者を獲得するうえでこれはすでに古くさい昔話なのであろうか。

 

■セーヴと社会主義的多数派

 

セーヴは、しかし情勢と条件は変ったという。「それはレーニンのロシアでは考えられなかった、プロレタリアートの範囲を大きく超えた人民の多数者を以下の目的のために結集する可能性にある。−その目的とはただに進んだ民主主義の達成にあるばかりでなく、この結集を基礎にして、歴史的時間の短い期間に社会主義を達成するにある。ーしかもそのうえ、社会主義を社会主義ヘの移行以前に実行するにある。言葉を変えていえば、それは古典的なレーニン主義的な問題の条件を逆にする可能性である。」と。彼はそれを可能にする新しい条件として次の五点をあげている。

その第一は、資本主義の世界的な危機とその歴史的な限界ー矛盾の尖鋭化である。第二は、現代フランスにおける社会主義の客観的基礎が経済的社会的政治的イデオロギー的および文化的に実現されていることだが、それは第三に、フランス社会の階級構造の極端な両極化の結果であり、巨大な多数者は賃金取得労働者と一層広汎な生産者より成り、彼等の唯一の、あるいは少くとも主な利害は社会主義に在るにある。さらに第四に、国家それ自体の危機であり、それは権力の奪取と国家の改造のためのかつてない機会を提供している。最後に彼は、世界的な新しい力関係の変化が反帝勢力の有利な条件と社会主義への支持をつくり出すと主張する。たしかに一般的にいうならば、この五つの条件は理解できるし、またわが国でも指摘できるところである。しかし重要なことは、危機のもたらす「社会主義の客観的基礎の実現」を直ちに社会主義革命の前提条件の成熟と見なすことができるかどうかという点にある。

世界でも有数な日本の技術革新は、かつてないような階層分化の多様化を生み出している。それは賃金取得労働者層を一層多くつくり出すとともに、この層に今までまつわりついていた古い、小ブルジョア的な気分と考え方をそのまま労働者のなかに持ち込ませている。そればかりではない。技術革新それ自体が一方では社会主義への物質的な基礎を一層準備しながら、他方では労働の全体像を労働者から見失わせることで労働者の意識を分断し、生産と闘争を通じる連帯感を著しくそいでいる。そのうえ深まる体制危機は、独占ブルジョアジーに可能なあらゆる方法で労働者、勤労者の意識をくもらせることを急がせている。一定の限度内での収入の「保障」を前提とした「マイホーム思想」と企業主義的な意識の普及は労働者、勤労者をからめとる有力な武器となっている。庵大なマス・メディアはそれを強力にバック・アップしている。危機の深化と社会主義への客観的基礎の成熟は、一方で階級闘争の発展を刷き出すとともに、他方では独占ブルジョアジーと権力に危機に対応する効果的な諸方策を一層熱心に追求させている。

こうして社会主義への客観的条件の成熟は、社会主義革命の主体的な条件を準備するとともに、それを掘リくずす作用とを、まさにゼーヴがくりかえし強調するように弁証法的な関係においている。一つは対立する他に転化する。今甘の口本における体制危機のもとで、JC路線と新労使協調主義を土台にした中道路線の登場ー新「連合政権」論を含めてーはその典型である。それはもはや自民党単独支配を許さない体制危機の鋭い一面を示すとともに、まさにその故にこそ「左」をもからめとることでこの危機を乗り切ろうとする彼等のたくらみと有効な勢力がある。こうした矛盾の弁証法は変革の前夜まで、いや変革の過程を通じて決して終ることはないであろう。従ってレーニンが、発達した資本主義国ではロシアとちがって「事件ははるかに複雑な形をとって、はるかに急速にすすむであろうし、発展の速度はもっと激烈になり、転換はもっと複雑になるであろう」と予見し、「資本主義が発達し、最後の.一人まで民主主義文化と組織性があたえられている国では準備もなしに革命をはじめることはまちがいであり、ばかげている。」(「ロシア共産党()第七回大会」)と指摘していることは今日でもけっして古い教訓ではない。

もし数の問題でいうならば、たしかに今日の発達した資本主義国ではレーニンの時代とちがって小生産者の数が次第に減少するとともに、何らかの形で賃金を取得しその生活を賃金に依拠する勤労者の数――肥大するホワイト・カラー層を含めてーが次第に増大し人民の多数者を占めていることは事実である。こうした清況のなかで重要なのは、農民をはじめとした中間層を獲得することだけではなく勤労者層をどうして生産的労働者の闘いに参加させ思想的に獲得するのかということである。

セーヴのいう「階級構造の極端な両極化」は、多数者獲得の課題を労農同盟という階級的な基礎の問題からさらに労働者、勤労者のなかでの思想獲得という新たに重要な問題をわれわれに提起している。その意味で、「技術革新による労働者と勤労者の多様な分化のなかでの反独占統一戦線を闘いとる課題は、古典的な労農同盟の枠を超えている。それは労働者自らがその戦線を統一して革命的な展望をつかむことと、断固たる闘いで中間層を味方に獲得することを統一的に解決することである。

(「現代資本主義の危機と労働者階級の任務」同前)

こうして労働者が多数者になったことは社会主義をめざす闘いにとって一層有利な条件をつくり出すとともに多数者となった労働者がどうして変革の指導力であるべき労働者階級たり得るかというレーニンの時代にはなかった問題の解決をわれわれに迫っている。さらにまた、戦前とは比べものにならないほどの社会主義の発展と拡がりは、誰でもが――社会民主主義者から小ブルジョア市民主義者までを含めて――社会主義を語ることができるほどの「合法性」をつくり出すとともに、社会主義の「多義性」はますます拡がりその原則が稀薄化される条件を生み出している。こうした情況のなかで人口の「巨大な多数者」が、セーヴのいうように「彼等の唯一の、あるいは少くとも主な利害は社会主義に在る」とすれば、その「社会主義」がどんな社会主義なのかが明らかにされねばなるまい。日本とちがって労働運動が発展し、国会の中でも地方議会でも「左翼連合」が過半数に迫りつつあるフランスで、「共同政府綱領」――恐らくセーヴのいう「社会主義への移行以前の社会主義」――に賛成する多数派が―その「議会への算術的転形」をも含めて―権力奪取の過程が不可避的な衝突と巨大な衝撃のなかでもそのまま変らぬ社会主義革命の多数派であり得るかどうかは歴史に聞くほかはない。

しかし、少くとも小ブルジョアジーとその思想的影響下にある勤労者層がこの革命に共感と支持を与えながらも、労働者階級が権力のヘゲモニーを獲得し独占ブルジョァーを打倒する闘いに成功したあとで、その教育と指導、実利と実益を通じてこそその決定的な味方になることは今も変らぬ真理ではあるまいか。

 

■セーヴとプロレタリアートの独裁

 

しかし、セーヴがいいたいのは、「真の多数者が、進んだ民主主義の段階において、社会主義への移行が実現される以前に、この移行に賛成して結集できる以上……社会主義権力の必要な任務はプロレタリア独裁とは全然別の形態を通じて実行しうるし、しなければならない。」ということである。そのためにセーヴはあらかじめプロレタリァ独裁を形態にすりかえたうえで、「プロレタリア独裁を特徴付ける特定的に独裁的な形態」の根拠を、合法性に「合法的」に変更を加える可能性をもたず、旧国家機構が閉鎖も内部からの変形もできない以上これを破壊してその外側で新しいソビエト型機構をつくる以外に方法がなく。反革命が武力による暴力的な抑圧によって克服されざるを得ないという特定の歴史的情況のもとでのみ適合性をもっているものだと規定する。しかし、プロレタリアートの独裁はそうした一定の歴史的状況のもとでの一定の機能を果すための形態ではない。

プロレタリアートの独裁はマルクスがいうように資本主義から共産主義へのあいだの政治的過渡期に対応する国家である。「この過渡期は、この二つの社会経済制度の特徴または特性を一つに結合したものとならざるを得ない。この過渡期は、死滅しつつある資本主義と生れでようとする共産主義との闘争、いいかえれば、打ちやぶられたが絶滅されていない資本主義と、生れ出はしたがまだまったく弱い共産主義との闘争の時期とならざるを得ない。)(レーニン「プロレタリアートの独裁の時期における経済と政治」)こうした過渡期において「プロレタリアートの独裁」の任務は階級をなくすことである。「社会主義とは階級をなくすことである。階級をなくすためには第一に地主と資本家をたおさなければならない。われわれはこの任務を遂行したが、これは部分にすぎず、しかももっとも困難な部分ではない。階級をなくすためには第二に、労働者と農民の差異をなくし、すべての人々を働き手にしなければならない。これは一挙になしとげるわけにはゆかない。これは比べものにならないほど困難な任務であり、必然にも長期にわたる任務である。それは社会経済全体の組織的改造によって、個別な、孤立した小商品経済から大規模の共同経済にうつることによって、はじめて解決できる任務である。」

(同前)そのためにこそプロタリアートの独裁は必要なのだ。結局、階級が消滅すればプロレタリアートの独裁は不必要となって死滅し、階級はプロレタリアートの独裁なくしては消滅しない。階級のない社会をめざすためにこそ階級闘争ー形態は変ろうともーが必要であり、二人の自由が万人の自由となる」社会をつくりあげるためにこそプロレタリアートの「独裁」が必要なのだ。そこに自らを解放することで人間の解放をめざす闘いの不可避的な過渡点としてプロレタリァートの独裁がある。その形態はもちろん歴史的な発展にともなって変化するであろうし、その任務と機能はその歴史的な時期によって異なるであろう。しかし、それがどんな形態をとろうとも、どんな名前で呼ばれようとも、その本質はプロレタリアートの独裁である。

しかしセーヴは、プロレタリア独裁は労働者とその同盟者の権力という本質が一定の歴史的な状況のもとで密接に結びついた本質的ではない歴史的形態だという。「この意味において、それは労働者階級とその盟友の権力の概念の、あるいは、社会主義権力の概念の歴史的特定化以外の何ものでもない、あたかも暴力革命が革命の概念の歴史的特定化であるがごとくに。」と。だが、もちろんこれはまちがっている。「労働者階級の権力」あるいは社会主義権力という表現は、一般的に権力を所有階級あるいは社会経済体制によって区分する形式概念である。しかし"プロレタリアートの独裁"という概念は、――存在とはそれ自体が変化であり運動であるように――労働者階級の歴史的、弁証法的な運動の内容を規定する本質概念である。従って、その形態が武力的形態をとるか非武力的形態をとるかー平和的発展のかたちをとるか内乱のかたちをとるかーは別としても暴力が歴史の「助産婦」であるという本質は変らぬように、その形態が「ソビエト」のかたちをとるか新しい歴史的条件のもとであり得る多様な形態をとるかは別にしてその本質はただ一つ、プロレタリアートの独裁である。

だがセーヴはさらに極言する。「レーニンは実際、プロレタリア独裁という言葉を概念として取り扱った。私の心ではこれは誤りだと思う。」と。その理由は、「もしもブルジョアジーの権力が、その形態は何如様であれ、常に基本的には独裁であるとすれば、それは、その外観は如何様であれ、その最終的分析において常に、多数者にたいする少数者の権力であるというブルジョア権力の本質そのものよりあらわれる。それが民主主義の、多かれ少なかれ、形式的なものにすぎない理由であり、また綿密に観察すれば、それが法律によっては束縛されておらず、暴力に基礎をおいていることが観取ざれる理由である。これとは対照的にプロレタリア独裁は社会主義権力の自然な帰結とは見ることができないばかりではない。それは単に一時的な矛盾に表現を与えているにすぎない。

すなわち社会主義権力は、その本性上、大多数の権力であるが、歴吏的にはそれは少数者の権力のうちにその起源をもち得るという矛盾である。」と。従ってセーヴによれば、ブルジョア独裁は「階級としてのその歴史的な存立の固定的な必要条件」であるが、本来多数者の権力である社会主義権力はそれを必要条件としないから独裁ではないという。

ここに至って独裁の問題はついに数の問題に帰結させられる。こうして国家が階級独裁の特殊な権力であり、少数者の多数者にたいする独裁から多数者の少数者にたいする独裁へ、そうして独裁でも何でもないものへと発展するマルクス主義の科学的洞察と追究は放棄される。はじめは路線と闘争形態でレーニン主義に反旗をひるがえした第ニインターの多数派が最後にはマルクス主義と快別したように。(一九七七・一二・一)